死んだエヴァンゲリオン(バレ含)

正直一生公開しないでいいと思っていた。

視聴後も、やんないで欲しかったと思っている。

 

 

 

 

 

 

映画である以上商業作品であるので、そういう訳にもいかないのだが…

今回は前日にQを見返し、万全の体制でシンを視聴した。

僕は思春期ど真ん中にTVシリーズを視聴しまして、長年の決着という感は僕の中にもあったんだと思います。

 

 

 

僕の好きなうみねこのなく頃にの台詞に「生きた猫は愛でて楽しみ、死んだら腹を裂いて楽しむ」という言葉がある。

 

物語は2回楽しめるという意味の物だが、

死んだ後の腹を裂いてーの部分には所謂”無粋”や”蛇足”と呼ばれる話も含まれてしまう。

そういうモノが殆どあったのだ、シンエヴァには。

 

 

良く言えば不満の無い作りになっていると思う。

話の筋は殆ど旧劇ベースで、一つ一つのポイントを納得出来る形にし、解説まで加えてくれ、新規ファンも既存ファンもなるべく多くの人が楽しめる形になったと思う。

シン単体として見ても、4作品通して見てもかなりレベルの高い作品だと思う。

明確な敵が描かれ、対話により解決した。碇シンジは成長した。

ただ、それだけの話だ。勿論、旧劇から紐解くとただそれだけの話ではあったのであろう。

ただ、猫は死んでしまうと、それ以上愛でられない。

物語もそうなのだ。

 

エヴァンゲリオンという作品がこれだけ長い間多くの人に愛され、憎まれ、注文を浴び続けた中身には”神秘性”というものがあった様に思う。

一筋縄じゃないかない”様”な、小難しい話の”様”な。

無論、一つ一つ紐解いていけばそんなに難しい話ではないと思う。ただそういう”雰囲気”があったハズだ。

様々な考察と様々な解釈があり、愛され続けた作品だと僕は思っている。

考察本とかもいっぱい出てたよね。

 

あまりにもシン・エヴァは語りすぎていた様に僕は思い、そこが不満だった。

(旧劇が語らなさ過ぎた部分はもちろんある)

勿論これは僕の好みの問題でもある。

全てを説明したほうが今の社会下手に炎上等しないし、作者が作品を通して伝えたい事から掛け離れてしまった考察等が広まる心配も無い。

何より最近考察系アニメは流行らないし。

だがそれは、視聴者を”考える楽しみ”つまり”生きた猫”を殺す行為だと思う。

猫箱の猫は死んでいるか、生きているかわからないからこそ生死を巡っての議論を楽しめるのだ。

エヴァンゲリオンといえば、そういう”考えて楽しむ”という固定概念が僕の中にもあったんだと思う。

箱を開けて猫の生死を見せて語られてしまうと、生死を巡っての議論は出来なくなる。

表裏一体であり、賛同が得られるのは勿論箱を開ける方だろう。

ただ、箱の中身を知らなければ永遠に議論が出来る。愛せる。

この主張が押し付けがましいのも理解しているが、それを押し付ける記事なのでご容赦頂きたい。

 謎が謎のままで終わる事があってもいいんじゃないかと。

 

正直視聴後はどれだけ頭を悩まされるか期待していた部分はあった。

これで終わりと製作側も明記していたのに、どうせ続くんだろうなと思っていた自分もいた。

そこが裏切られーまさに死んでしまった。

そこを含めての「さよなら、全てのエヴァンゲリオンー」という台詞なのだと思うが…

 

 

この記事自体、エヴァンゲリオンが死んだことを拒絶してる僕への葬式みたいなもんだと思う。

正直、君が死ぬまでに覚悟する時間はたっぷりあったし、書いたほど悲しんでるわけではない。それ以上に楽しみを十二分に与えてくれた作品だと思う。

結局囚われずに生きろという旧劇からのメッセージは変わってなく、これを書いてる時点で囚われている気はするが―

 

だから僕もありがとう。さよなら、エヴァンゲリオン